私は、皆様に、偽善者になるようにとお勧めしたいのです。
しかも、とことんまで化けの皮のはがれないように、
最後まで、うまく偽善者として生き通すように努力して
いただきたいと申したいのです。
かく申す私も、最善の努力を払って、他人様に
求めることを、自分でも実践いたしたいと考えておりますが、
お恥ずかしいことに、まだ今のところ、
すぐにしっぽをつかまれる程度の偽善者にしかなれず、
無念に思っております。
このようなことは、偽善者の反対の偽悪者がよく
勧めることだと言われる方もおられましょう。
しかし、偽悪者--つまり悪人気どりということには、
自分は善人であるという前提があるはずです。
ところが、皆様にしても、自分が善人であると、
心から確信しておられるでしょうか?
ほんとうに、そう信じている方々がおられたら、
私は困却いたします。と申しますのは、そのように
思っている方々に対して、私は常に恐怖を抱いているからです。
つまり、自分は善人だから・・・・・・と思っている人くらい、
何をしでかすかわかりませんし、少なくとも、私は、
怖くてとうてい付きあえないないからです。
私は、どう考えても、自分が善人とは思えません。
ですから、偽善者たれと主張する場合、決して、偽悪趣味を
発揮していることにはならないのです。
むしろ、「善人すら往生す、いわんや悪人においてをや。」
という親鸞上人のおことばをかみしめつつ、
善にあこがれている旨を告白したにほかならないことになります。
ところで、偽善者になれと申しましても、ちょっとばかり
条件がつくのです。
だれにでも当たりのよい人のことを、八方美人と呼びますが、
八方では不十分なので、百方美人、千方美人、万方美人、
憶方美人、兆方美人になってほしいのです。
わずか八方だけの美人では、偽善者としては下の下です。
億兆の人人を、うまくだましきれるほどの完璧な
偽善者になることは、なかなか難しいのです。
つまり、偽善者として、九十九人をだませても、
一人をだませなかったら、偽善者としては落第に
なってしまうからです。
上役にばかり取り入って、同僚や後輩につらく当たる
人間は、偽善者の風上には置けぬ似而非偽善者であり、
家以外の人々にはにこにこし、女房子供には暴君のような
人間もそうですし、公明選挙のたすきを掛けて、
市民には聖人面をし、料亭では政治献金と利権とを
交換しながら赤い舌を出す人間も、同じく似而非偽善者と
呼ばねばなりますまい。
一生涯、善人面をし、己の悪人であることを徹底的に
隠しおおせ、少しもぼろを出さぬようになることこそ
私の理想ですし、皆様の理想になってほしいと
思っていますが、もし、皆がそうなれたら、世の中の
あらゆる人々が、優しく、思いやりがあり、不正を憎み、
平和を愛し、ペテンを唾棄することにもなりましょうし、
「人間尊重」などと言って「非人間尊重」だったりする
似而非偽善者も生まれなくなるでしょう。
昔から「病を養う」という成句があります。
これは、病気にかかった人が、自分の体の中に
住みついた病魔を、うまく飼いならして、病魔が
これ以上暴れ出ないように馴致することを意味するように
思われます。本来悪人であるわれわれも、
自分の中に住みついている悪人を、うまいぐあいに
飼いならして自分の悪人があまり暴れでないように
心がけたほうがよいわけです。
そしてそのためには、徹底的な偽善者、完璧な偽善者に
なるように努力すべきでしょう。
八方美人では不足であり、億兆方美人になって、
善人面をしてあらゆる人々をだまし尽くせるように
なるべきでしょう。「もしそうなれたら、われわれの中に
いる悪人は、あたかも牢屋に閉じこめられたようになり、
われわれが死ぬころには、栄養不良のため、ミイラに
なっているに違いないと思います。」
ですから、完璧な偽善者になりきり、一切衆生を
だまし通すことができるように、われわれは精進するほうが、
自分は善人であるとうぬぼれて、悪人を気どって
偽善者になるよりも、はるかに難しいような気がいたします。
こんな妙なことを考えましたのは、フランスの17世紀の
哲学者ブレーズ=パスカルのある考え方を思い出したからなのです。
パスカルは、神を求めながらも入信できず、
「神とはなんぞや?」「神を見せよ!」とだだをこねる人々に
向かって、こう申しました。
「善男善女の信者たちがするように、なんでもよいから、
祭壇の前にひざを突いて、祈る格好をなさい。
何度も何度も、そうしているうちに、神はひとりでに
見えてくるし、わかってくるようになる。」と申しました。
「一切衆生をだまし通せるほどの大偽善者になれ。」
などと申しては、道徳教育的ではないとしかられるかもしれませんが、
一切衆生をことごとくだまし通すほどの大偽善者には、
おいそれと簡単にはなれないところに、
この勧めの、道徳教育的なところが潜んでいるつもりです。
終わりに記しますが、偽善とは、善を装うことでありますから、
虚偽、裏切り、怠惰、うぬぼれ、陰謀・・・・・・などのあらゆる
悪徳への勧めとは縁がありません。偽善とは、良い人間、
りっぱな人間のふりをし、一生涯りっぱにその仮面をかぶることです。